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カメラマン×ダンサーの自宅建築録②土地の購入&誰に施行を頼むか?

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さて、住む地域が決まったら今度は、具体的な土地探しと施工者をどうするかである。

実は2017年7月の現時点でもうすでに土地が決まり、まもなく着工に近づこうとしているんだが、せっかくなんで時系列に書いていこうと思う。

 土地に関しては、ネットの@ホームやらSUUMOやらの不動産検索でデータを隅から隅までチェック。土地の大きさ、駅からのアクセス、周辺の環境なども勘案して探しまくる。ネット検索だけでは見落としがあるに違いないと、地元の不動産屋も数件電話したり回ったりした。

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名倉地区からの景色

 藤野という場所の特性上、駅からそんなに遠くないなと思っていても、実際は一山越えないといけないとか、もの凄い急勾配の先に土地があったりとかして、やはり不動産情報だけで見るのと実際に行って見るのとではかなりの違いがあった。

 その中でも駅からのアクセスも悪くなく、見晴らしも最高の物件を発見し、ここで決めようとしていた物件があったのだが、住宅ローンの関係ですったもんだしていたら冬になり、その時点で同じ土地を見に行ったら思いのほか冬の太陽の日照角度の関係で南向きの山が影になり、どうやら冬は昼時に太陽が隠れてしまいそうだった。
毎回藤野には中央道で行っていたが、高尾山を越えると急に空気が変わり、キレイにもなるが、寒くもある。山の気候なんだから間違いなく冬場は日当りが悪ければ相当寒いだろう。

 そんなわけで、またまた振り出しに戻って考えなおし、南向きの日照を忘れることなく重点を置いて絞り込み、やっと今の土地に決めることができた。このプロセスだけで半年以上かかったように思う。

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自宅下の湖畔

 場所は国道沿いで今までで一番広く、崖になっている分だけ価格も安かった。国道沿いだとクルマの往来が激しくうるさいのが難点だが、崖側はちょうど隣の家の擁壁の下になって思いのほか静か。

 南向きが相模湖なんでびっくりするくらいの絶景で、日当りは間違いなくいい。崖下は住宅しかないので往来は少ないし、自宅の崖下から湖畔まで1分でいける上、子どもを連れて浜遊びもできそうな地域。春には山の鳥のさえずりと新緑の山、空には鳶が滑空している。夏には相模湖の花火大会が庭から眺められる。相模湖でボート遊びも楽しそうだ。

 土地も広いので国道沿いと崖側で分割し、崖側に自宅、国道沿いには将来的に妻のスタジオ兼自分が何かしらの店舗をやれるくらいの余裕がある。僕らのような自営だとそういった余地も充分にあることも大きな決定要因になった。

 施工を誰に頼むか?

 そんなわけで先だっての土地の購入に至ったのだ。そして、本題の施行をどうするかなのだが、これも実は土地を決めてからというわけにはいかない。住宅ローンを使うことを前提とした場合、施行に関しても土地の購入の段階で施工主をおおよそ決めておかなければならない。何故なら、図面やら概算見積もりをローンの審査で提出しなければならないからだ。

 だから、実は土地を探すのと同時に施工主を探し、そもそもどんな家にするかも決めていかなかればいけない。ざっくり言うと施工者の候補は3つある。

ハウスメーカー・工務店・設計士

 ハウスメーカーはいわゆるモデルハウスがあってそのモデルにのっとった素材や設計方法、デザインを決められる。メーカーによって趣向が違うのでとにかく安くて定番のところ、自然素材の家、とにかく安心安全で高級感のある家などさまざま。

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BESS 程々の家

 我が家は原則できるだけ木をたくさん使った山小屋のような家が良かったので北欧住宅やらBESSなどがつくる家もいいなぁ、なぞとモデルハウスを覗きつつ思っていた。しかしながら、よくよく家のことを知るにつれ、ハウスメーカーだと安くてデザイン性が高いと思っていても一番大切な基礎やら柱がギリギリのつくりでちょっと心もとないところが実はあったりする。また、大手ハウスメーカーは小規模な工務店などよりモデルハウスやら営業マンやら広告でかかっているコストが高いので当然のことながらそれらのコスト分が上乗せされてくるように思える。

 そうすると、安くてそれなりに基礎や柱も長期的に見て丈夫で、かつ自分たちが求めるような素材やデザイン性を求めると中小の工務店か、それらと提携する設計士の方がいいということになる。

 しかし、難しいのはそれら中小の工務店や設計士はホームページはあっても検索の上位にひっかかってくれないので見つけ出すのは非常に難しい。実際、見つけ出した武蔵野地区の自然素材をウリした木材屋がやっている中規模な工務店に見積もりを出してみると割と悪くない体裁だった。でも、もっとベストチョイスがあるのではないかと他の方法も探ってみた。

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調べる・足を使って聞く

 こういう時に編集記者の原則である「調べる・足を使って聞く」という基本的方法論が意外と役にたった。まず、藤野に行くと必ず寄る芸術の家の上にあるカフェ「笑花食堂」の人の良い店主であるキーちゃんに聞いてみた。彼女ははじめに行った時からきさくに話しかけてくれて、家を建てる話もなんとはなしにしていた。そこで、具体的に設計士や工務店を探している話をすると彼女が元働いていた場所である「shu」というカフェはアーチストから建具屋まで藤野のさまざまな情報が集まる場所であるという。そして工務店や設計士さんの知り合いもたくさんいるはずとの話。そこでキーちゃんに「shu」の奥さまを紹介して頂き、見事地元の設計士さんと工務店に行き着いた。

この「shu」というカフェ、センスの良いギャラリーも併設していて、カフェ自体のデザインや施行も美しく、カフェの裏手でつくっている無農薬野菜を使った料理も最高に旨い。まさに藤野の名店というにふさわしい場所だと思う。藤野に来た際には「shu」と「笑花食堂」はおススメのカフェだ。

 紹介された設計士T山さん(確認して本名もそのうち…)は、元は都心の設計事務所に勤めていたという方。彼もまた僕らと同じく調布近辺に住んでいたが、自宅建設を機に藤野に越してきたという。田舎に住んでいる人には珍しくハキハキと滑舌がいいので都会で仕事をバリバリと仕事をしてきたのであろうなというのが話ぶりからもわかる。

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つくりたい家のサンプルとして提案した和洋折衷の洋館。

 都心のビルとかいかにも高級な邸宅の設計もやっている人なので、果たしてうちのような低予算のわがままにつきあってくれるのだろうか… と不安に思いつつも意外やひとつ返事で「やりかたじゃないですか?」と答えてくれた。

 ああ、この人スゲー仕事できる人なんだろうなぁ、というか仕事のやり方の気が合いそうだなぁと思った。実際、自分もこの言い回しをよく使う。なぜなら工夫をしっかりと凝らすことこそ、景気のよくない現代を個人経営で生き抜くための常套手段だと僕は思っているからだ。

 自分で言うなら出版不況の今という時代において、今までとやり方を変え、人海戦術を駆使したり、つくり方に工夫をすることで生き残っているのと同じようなことだ。
ムックや本をつくる際に出せる予算は、よほどのカリスマ編集者がいるようなところをのぞいて、ざっくり言うと200万から100万以下に減り、多くの製作会社が無理だと文句を垂れながら潰れていくなか、生き残れたのは恥も外聞を気にせずページ数を減らし、会社の規模も小さくし、内省を極限まで行ってもできるだけ良い本にし、利益を出す工夫を考えてきた人たちだけのように思う。

 そうした工夫は大きなコミュニティがなくなり、いかにして中小規模のコミュニティにモノを売るかという現代のあり方に対峙しようという際に必要不可欠なものだと僕は思っている。

 しかもこのT山さん、流石都心の設計事務所に勤めていただけあって、建築関係に関する知識も豊富で住宅ローンを組む際に有利になる「長期優良住宅」をはじめとする事柄にも詳しく、自宅もステップハウスという山のある地域ならではの段々畑のようなモダンな家を建てており、かつ地元でのコネクションもしっかり築いており、この地区で建てるならば間違いなく対応力に長けているのだ。とにかくこの人に頼めば臨機応変にさまざまな願いに対応してくれそうに思えた。実際買った崖という特性のの土地もこの人ならなんとかできるに違いないという前提ありきで買ったのだ。

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「ステップハウス」T山邸じゃないよ

また、設計士さんに依頼すると有利な点は、必ずしも工務店を限定しなくていいことにある。工務店に頼むと大抵自社専属の設計士がいるか、自社で簡易の設計図をつくり、つくり方も平凡なものか自社独自のこだわりのあること意外のことはやってくれなかったりする。設計士ももちろん、デザインの得意不得意はあるのだが、つくりたい家の様式や予算次第で頼む工務店を変えることができる。つまり、設計士に頼むと割と融通が利きやすいという利点があるのだ。ただし、設計料が工務店に頼むよりちょい高めになるが、坪単価が高めの工務店に頼むよりは全体として割安にできるというようにも思う。つまり、坪単価は平凡な家をを建てる工務店並だが、設計士のセンスで通常なら坪単価がもうちょい高めの工務店に頼むような家を建てようという考え方である。
実はもうひとつ木の家を建ててくれる工務店さんもいて、そちらも素敵なセンスの持ち主で値段はともかく自分で切った木で良い家をつくりたいという良い意味で骨太な家をつくってくれそうな方だったのだが、住宅ローンの条件を満たすことができない諸事情があり、断念せざるを得なかった。

 そんなわけで設計はT山さんにお願いし、やっとこ工務店の見積もりがあがってきたというのが我が家の現在地。これからさらに削れるところや外せないことを絞り込んでいく。そんな合間に上野原で地産地消の木材を使う建具屋さんに出会い、これまた素敵な出会いだったので、そこらあたりはまた次回!!

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カメラマン×ダンサー夫婦の自宅建築録①住む場所を決める。

実はわたくし、息子が生まれてからしばらくして密かに自宅建築計画を進めておりました。
そしてつい先日、やっと土地の契約書にハンコを押印!
ここに辿り着くまで2年くらいかかったっっ!

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今、仕事場は山手線のど真ん中の飯田橋、自宅は国立。奥さんも自営業で国立駅前にベリーダンススタジオを運営していて、言って見れば夫婦で各々自営業をやっている。

今の自宅は2人で済むならちょうどいいくらいの大きさだが、子持ちで3人で済むにはちょいと手狭なサイズ。そんなわけでいつかは子どものためにも、もう少し大きな家に引っ越さなければならない。

賃貸にするか買うか。

こういう事って実はすごく真面目に考えたことがあんまりなくて、四十前後の最近になってやっとどうするべきかいろんな意味での損得を含めて考えるようになった。思えば30中盤くらいまで、仕事に遊びにただただ、無我夢中で突っ走って来たように思う。

でも、この時点での悩みは大したことではない。特に転勤があるような仕事でもないし、今の家の家賃も国立とはいえ、小さな庭付きの平屋であることもあってかそこそこする。新たに借りるとなるともっと高くなるだろうし、買った場合のローン返済シュミレーションをしてみても、今よりむしろ安くなることが判明。もちろん計画した予算内で建てばの話だが…。

僕も奥さんも一緒に各地を旅して見て来たこともあって、家に対するビジョンがそれなりにあったんで、それを実現するなら建てるべし、ということになった。

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2人とも田舎育ちで割と自然の中でのびのび育った方なんで、できるだけ似たような環境で息子を育てたいという共通項がまずあり、僕らも休みの日には日当りの良い庭かデッキでのんびりできるくらいの環境は欲しいよなぁ〜、という漠然としたイメージがあった。それでかつ将来の子供部屋付きの家、と簡単に考えていたが、都内でそれを実現するのはそれほど簡単じゃあない。

とにかく都内の土地は高いのだ。中野、吉祥寺はもとより、三鷹や国立でも結構な値段だ。岡村靖幸の歌にある通り「東京じゃ、家なんて建てれない、バカ高い」である。そんな場所では、つくれても、庭はほとんどなしの日当りの悪い狭小住宅くらいだろう。それなら建売りか中古住宅のがよかろうという話になる。ちなみに予算は、中間管理職の社会人に毛が生えたくらいで25年ローンを組める家と考えてもらえばいいいと思う。
それでも実は、JRを外して京王線が少し安くなるので、そこで悪くない場所を見つけ、一時は決めかけたのだが、結局今の選択肢に辿り着いた。

それは相模湖畔の藤野という場所。

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img_3917確かに京王線も便利で悪くないが、基本郊外の住宅地、という環境であり、特別な何かがそこにあるわけではなかった。もちろん都心よりは穏やかだが、自分が生まれた場所である平塚で過ごした時のような丹沢の美しい清流や海遊びができるような環境が近くにあるわけではない。とりわけ私も妻もそういった美しい小川や山に囲まれて育った景色の印象が強烈に残っており、息子にもそれを体感させたいし、自分たちにとっても便利でステキな郊外に住むよりその方がよっぽど高い優先順位になっていた。

ふとした時に妻があきる野の山奥に安い中古住宅を見つけ、そのまるで「日本昔話」を地で行くような里山の美しさと動植物の営みについ引き込まれて、やっぱりこういう所だろ〜! ということになった。
でも、実際問題あきる野に住んでも近場で知った人はほとんどいないだろうし、場所も遠くて誰も来ないんじゃないか? 自分たちのような変わり者が遊べるようなコミュニティもないんじゃないかとちょっと二の足を踏んでいた。

そこではたと思いついたのが、藤野である。藤野は今は相模原市に合併しているが、藤野市だった頃から町おこしの一貫としてアートを位置づけており、たくさんの作家さんやアーティストが移り住んでいる場所。駅の売店でも藤野在住の作家さんの作品が売っていたり、町のそこかしこにアート作品があって、僕ら夫婦のようなタイプがむしろ溶け込みやすい環境なのである。しかも、未だ藤野地区はアート振興を押し進めているので、何らかのかたちで仕事に繋がる可能性も充分にあるだろう。すでにいくつかの事柄を模索しているし、実は妻のダンスの生徒で藤野からわざわざ通ってくれている人もいるくらいだ。

さらには、交通費や通勤時間の点。
実は、自分の実家である茨城県つくば市、妻の実家である埼玉県の比企郡にも土地があり、そこで建てることも考えたが、つくばエクスプレスは定期で買ってもびっくりするくらい高く、東武東上線でも藤野に行くよりは高く、通勤時間も遅くなる。藤野は朝の通勤時、高尾から始発の特快に座って乗れるのでむしろ楽になると思われる。クルマで中央道を使っても、関越道や常磐道より少し安くなるのだ。

img_3934そして何よりも決め手となったのは、その美しい里山に相模湖、そしてちょっと山に入れば丹沢山系に繋がる清流が流れており、春夏は間違いなく清流遊びを満喫できることである。
近くにいくつかの温泉もあり、風呂好きな我らにはたまらない環境なのだ。

そんなわけで、パワポやエクセルで比較検討計画書まで書きつつ、いくつかの考察の果てに自宅の建築場所は藤野となった。その後、土地探しや資金繰りでもかな〜りのすったもんだありましたが、それはまた後日…。

とにかく当ブログで自宅建築までのあれやこれやをこれから完成までに書き連ねてみようと思います。

次回は建てる家の施工者選びについて書きますよ。

自分を捨てて仕事してるか

自分を捨てた時、あなたがやるべき仕事が見えてくる。現役アニメ映画プロデューサーがジブリで学んだ仕事術。

僕も若い時は「自分を捨てろ」とか「頭がわるいやつほど難しい言葉を使おうとする」などとさんざん厳しく叩かれ、「やりたいことよりできること」が いかに大事かを教えられてきた。要するに読者とか客が見えてないものはつくれないぞ、ということだったのだが。そのおかげで、本をつくることが今でもそれ なりに稼業として成立している。
若手の頃って世界が狭いもんだから、自分と友達の間だけで流行っているものが世の中だと思っていて、それがウケるに決まってるとか何の根拠もなしに思っていた。自分の考えたこの企画こそが世界を変える!とか勝手に夢想しては挑んでみたりもした。
しかし、そういったもろもろの夢想は幾度となく打ち砕かれることで現実を知り、どこかで折り合いがつくようになっていった。
気づくと「やりたいこととできること」の違いが僕は今よくわからない。逆に言えばやりたいこととできることは、目を皿にしてさまざまな情報を収集して合理的に考えていくうちにものすごく近い存在になっていってしまうのだ。
でも、宮崎駿のような大御所ともなれば、好きなことやってんだろうなぁ、とか勝手に思い込んでいたがしかし、言うことは若かりし頃の先輩編集者と同じだった…。
しかし、彼らが凄いのは「必要とされているもの」や「誰もが驚くであろうもの」と「やりたいこと」を極限まで突き詰められたことにあるんだろうなと最近は思う。
そこまでいかないと本当はいかんのだよなぁ…。
今出版はじめて15年、あと5年くらいでそういうのをつくってみたいなと思っている。

ルアンパバーン滞在録with2歳児③

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旅も大詰め。
数日ゆっくりと市街を楽しんだあとは、有田家のライフワークとなりつつある絶景ダンス撮影である。
いろいろ調べてみると洞窟と泳ぐことができる滝があることがわかっていたんでホテルのスタッフなどに訪ねてみると「どちらでも撮影できるよ。なんなら寺で も撮影できますよ!僕がコーディネートします!」てな感じなもんでおそらくそんなにお腹を出して撮影することに抵抗はないかもしれないと考えた。
とはいえ、寺でダンサー撮影をするというのは、ちと不必要に禁忌を破るし、どうせ禁忌を破るくらいならヌードくらいやらないと面白くもなんともない。
で、洞窟と滝にチャンレジすることに。どちらも市街地からボートかバンで1時間くらい。2人だけなら、強行軍で1日ということも考えられるが子連れとなるとそうもいかない。
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1日目。パークーウー洞窟に向かった。ホテルの専属の小型ボートがチャーターでき、なんと貸し切り!しかも往復で立寄もして5000000キー プ=6500円は安い!確か以前にどこかで小型ボートを貸し切った時は数万払ったように思う。ツアーとかシェアすればもっと安いらしいが、せっかくなんで 家族みずいらずでボート旅を楽しむことに。
蛇足だが、このキープの単位が結構ややこしい。10000キープで150円だから100000キープで1500円。ゼロが多すぎていまいち価格がわかりに くい。常に通貨換算アプリを持ち歩いて確認しなければならなかった。旅の後半には大体20000~30000キープ=300円~400円でご飯も土産もの も買えることがやっとわかったくらい。いずれにしても何でも安かった。
で、メコン川でゆったりとスローボートで洞窟へ。これがまた最高に快適。雄大なメコンの流れ、川沿いでメコンの恵みを利用して農業を営む人々、水上で暮ら す船族、水牛やヤギの群れ、象と生活を共にする人々などをただただ眺めながら目的地へ向かうのは、日々多忙な都市で暮らすぼくらには、最高の贅沢であっ た。

息子も乗り物好きなんで、船の中を縦横無尽に駆け回り、時に僕らをひやひやさせながらも水上旅行に大興奮していた。
思っていたより少し時間がかかったが、川沿いのがけっぷちにできた洞窟へ到着。昼過ぎだったんで、洞窟の対面にある水上レストランでライスヌードルの皿うどんやら川海苔を喰らい、いざ洞窟へ。

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実は外から見ていた気づいていたが、やっぱりこの洞窟、寺であった。入って直ぐに大量4000体の仏像。アッパーケーブにも仏像。こりゃ、撮影は無理だわ、観光だね、と気分を切り替えて楽しんだ。ゲリラ撮影だとこういう状況にしばしば出くわす。
妻も朝数時間かけて準備をし、僕も5キロの機材と12キロの息子計16キロを抱えて長い階段を登ったが、それもまた旅の楽しみと思えばそれほど苦でもなかった。
最終的にラオ族の村へ立寄り、川岸でメコンのサンセットで撮影。12307337_1220762931274401_5895194631712621607_o.jpg
翌日、気を取り直してクアンシーの滝へ。トゥクトゥクやバンでも行けると聞いていたが、スローボート旅が良すぎたので少し時間と予算はかかるが、やはりボートで向かうことにした。
急いでくれたせいか1時間足らずで到着。タクシーで走ること20分でジャングルの山中の現地へ。
ゲートから数分歩くと、見たこともない澄んだ蒼色の水辺が見えた。いろんな国の空や海や川の色を見たが、こんなに摩訶可思議な青の川ははじめてみた。植生も美しく、ジャングル特有の蔦や斑入りの緑たちがなんともフォトジェニック。
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午後になると観光客が増えると聞いていたんので、直ぐに準備をして撮影を開始。しかし、時はちょうど昼過ぎ。欧米の観光客が次々と水着に着替えて泳ぎ出し、なかなかうまく抜けがとれない。
それでも美しい背景はそこかしこにあり、石灰質の岩肌と神秘的な青の川をバックに撮影することに成功。流石のYOSHIE先生、こういう場所に合わせたスタイリングがうまかった。
撮影後、僕も蒼く澄んだ滝壺に飛び込んで神秘の水と戯れた。

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ものずくれる人生②〜Rainbowの彼方とダンサー撮影〜

rainbow 僕が学生時代を謳歌した90年代は、ちょうどバブルが崩壊し、日本の経済が下り坂になろうという時 。世の中は何か世紀末的様相だった。 文化における大きなムーブメントは終わり、細分化されて小さなコミュニティになっていくと、当時いろんな場面で言われていた。その分岐点にあったのが90年代だったように思う。
音楽シーンで言えば、80年代パンクやニューウェーブの流れが終わり、オルタナティブロックやテクノがひとつの流れをつくろうと言う時。どことなく1ジャンルにおける本流は終わり、すべてがカットアップされていく時代にも思えた。実際2010年代の今、それが現実のものとなっている。
大きな流れは音楽というジャンルの中にはなく、「フェス」とか「秋葉系」という文化と一体となった中に存在しているようだ。 そんなロックの新しい潮流が見えない当時、「テクノ」という言葉だけは新鮮で、ロックが持っていた大きな意思はすべてテクノと融合していったような気がする。 そして”レイヴ”というものが最大のカウンターカルチャーとしてそこに産まれた。2000年以降、それは急激に素行の悪いガングロ 兄さん姉さんたちの下世話な遊び場になってしまったが、僕が遊んでいた頃はニューエイジ的流れを組みつつも、ロックのアナーキズムを携えたフリーキーな空間に思えた。

「セカンドサマーオブラブ」以降の日本におけるレイヴムーブメントは、リアルタイムに体感した90年代の時代そのものにも思える。70年代に夢見た理想郷、80年代は夢破れてリアリティを爆走、90年代は爆走しながら夢見るように今を生きる。原始共産主義という極端な理想を掲げるのではなく、より現実的に自然と共生する社会のあり方を問いはじめた時、だったような気がする。

そういった思想的なものが「まつり」の背景にあり、ただただ無為に遊ぶというよりは、多くの人が自己研鑽してあたまの体操を限界ギリギリまで楽しみ”彼方”はどこにあるのか見つける空間。気づけば集合無意識が、音塊に乗って「つながった世界」を創りだしている。泥だらけになって、どれだけ無茶苦茶になっても許されるような「解放区」がそこにはあった。とにかくどうかしちゃってる人がいっぱいいた良い時代だった。

Rainbow2000を筆頭にequinox、vitaminQ、solstice、いのちの祭りなど名前をあげるだけでこめかみのあたりが熱くなるような面白いパーティが毎週にように繰り広げられていた。 ベリーダンサーで言えば、トライバルサーカスでMIHOさんが踊っていたし、GOROさんがミシャールと出演しているようなこともあった気がする。でも、毎度激しく酩酊し、上も下もわからないような時に見たそのシーンは極彩色に歪んで、森や太陽の光、星のまばたきと轟音のアナログシンセサイザーのうねりと溶け合って定かでない。 実はそこで起きていたいろんなことについて書きかけの本があって、それをやっとかけそうな時が来ていることもこのブログを書いている理由のひとつ。あまりにいろんな人を待たせ過ぎて、あたまが上がらないので詳細は割愛したい。

bata そんな虹色のパーティシーンを体感しながら、唐十郎の「タイガーの眼」の講義を聞き、大里俊晴に「阿部薫を題材にレポート書いてきたら単位やる」なんていう課題を与えられ、論文ではジョルジュバタイユを執筆していたものだから、今思えば当時あたまの中はいつでもぐにゃりと曲がって、虚実混交してわからないという状態だったような気がする。
耳的にもテクノやトランスを聞きながら、アシッドフォークやフリージャズ、パンクロックも聞いてしまうようだったので、野外パーティに行った翌週に渋谷のアピアで友川かずきを見にいくといったような共有してくれる人が圧倒的に少ないんじゃないかと思われるような生活をしていた。    Rainbow2000にもその後働くことになるT社長と、とってもディープなアシッドフォークを奏でる井内賢吾さんと行ったような覚えがある。T社長はイスラエル人の戯れるスピーカーの前で白目を向いて痙攣し、井内さんは気づくと水たまりにダイブして叫んでいた。 そんな遊び方が「パーティ」だと思っていたものだから、いろ〜んな意味でこじらせちゃってたなぁ、妙な哲学にはまっていろんな人に迷惑かけたかもなぁ、とか今になって思うことが多々ある。
でも、僕の中では自然の中で心を爆発させて解放させることと、ライブハウスで内向的に爆発すること、果てはフェティッシュパーティで極限のパーフォーマンスを見せること、知的障害の人たちの本能の表現は、全部同じことなんじゃないかと勝手に思っていた。人間突き詰めると、行き着く慈愛のような恍惚の感覚はすべての表現にあるように思うところがあった。

それを体現しようと思ったのが野外五感ゲージツ祭「ゆらぎ」である。当時はまだ「フェス」なんていうものはなく、DJとロックやジャズのバンドが同じステージでパフォーマンスするということはあまりなかった。時に野外パーティのエコロジーな場でそういった過激でアバンギャルドな要素を嫌うような人もおり、どう考えてもおかしな常識観念に埋没していた僕は、反骨精神を無為にこじらせていた。
フランス文学を読み過ぎていたせいもあったのか「むしろそんな場こそが本当に自由な解放区だ!」と若気が至りまくって思い立ち、DJとフリージャズバンドとジャムバンド、パンクバンド、フェティッシュパフォーマー、暗黒舞踏、市民劇団、障害者の民族バンド、ライブペイント、オイルライティング、子どものためのアートワークショップ、ありとあらゆる自由な表現が共存するおかしなイベントをはじめてしまった。

この時にお世話になった渋さ知らズの舞台監督にして画家の安部田さんや、DJであり、さまざまな伝説のバンドのメンバーとして活躍したヒゴさんは、僕の恩師であり、どんな師匠よりも文化の尊さを教えてくれた2人だと思っている。もちろん当時の僕の稚拙なイベント仕切りとわけのわからない方法論につきあってくれたスタッフのすべてにも感謝している。これまた書き出すときりがないくらいいろんな話しがあるが、それもまた今度にしよう。

このゆらぎは学生時代から毎年秋頃に開催し、自分を含めスタッフも皆仕事で多忙になってできなくなってしまった2005年か2006年くらいまで5回に渡って開催。 毎年新鮮なパフォーマンスを魅せるためにいつもいろんな場所に顔を出していたし、いろんなアーチストを探していた。  そんな時に当時の僕のバンドメンバーが連れてきたのが、当時ミシャールの元でサマンヨルとして活動していたベリーダンサーサリちゃんである。まだ筑波大学の学生だったサリちゃんを筑波山のイベントに呼ぶのは、むしろ当然の流れであったし、ベリーダンスというエキゾチックで妖艶な踊りの魅力にもとり憑かれてしてまっていた。(先日、そんな学生だったサリちゃんがめでたく結婚! 彼女の紆余曲折をそれなりに見てきただけに感慨深いものがありました!)

そして、サリちゃんを通してはじめてミシャールの存在を知ることになる。当時はむしろ旦那さんであるGOROさんの方が僕はよく知っており、渋谷のストリートでディジュリドゥと太鼓のパフォーマンスをするカリスマ的存在だった。

HAN_4257ミシャールを見た時もまた大きな衝撃だった。確かGIOが主催するダキニナイトに行った時のこと。青山CAYの地下、薄明かりに照らされてまるでインドの女神のような黒髪のエキゾチックな出で立ちのダンサーがゆらゆらとステージの中央に現れ、女神のように座した。よく見るとお腹は大きく膨らみ、まさしく母なる女神そのものにさえ見えた。ふっと、手元から火を魔術師のように取り出し、手首腰くびれを蛇のように揺らして摩訶不思議。妖艶なエネルギーが会場全体を包み込んでいるように見えた。
その衝撃は、雑誌クイックジャパンに記事として紹介した。そのことをきっかけにデバダシスタジオと親交を深めるようになり、その後某誌の結婚特集では、インタビューも行ってミシャールとGOROさんの2人とより深く関わるようになっていく。

その当時、写真撮影の経験も重ねたいと思っていた僕は、イベントに呼んでもらう度にちょっとずつ写真も撮るようになった。格闘技とポートレートの撮影、グラビア撮影アシスタントをやっていたので、動くダンサーを撮ることは格闘技のパンチのインパクトの瞬間を撮ることと、女性のボディラインの美しさを切り撮るモデル撮影をあわせたような要素があって、僕のやっている仕事を集約するような面白さがあった。また、求められる写真を撮る雑誌の仕事以上に、自分の表現欲求を満たしてくれるところもあった。

当時まだベリーダンスの写真をプロで撮る人自体それほどおらず、プリントした写真を持って行くとみな喜んで感動してくれた。実は当時舞踏の撮影も好きで時折行っていたのだが、舞踏を撮る人というのはかなり多いせいなのか「撮るならいくらなのか?」と請求されることもあり、住み込みの安月給だった僕にはちと敷居が高かったのもある。 それから長くベリーダンスを撮ることになった。

tribal住み込みのペーペー時代から独立し、ストロボを使った特写も覚え、いつしか雑誌のグラビアや表紙撮影もするようになると、プロフィール写真なども頼まれるようになった。いくつかの製作会社やカメラアシスタントを転々とし、さまざまな技術を体得しては、ダンサーの撮影の際に転嫁させたり、逆にダンサーの撮影の際にいくつかの実験をして、グラビアに活用することもあった。
そういう意味では、求められる体裁に確実に応えなければいけない雑誌の撮影と、ダンサーと起きる化学反応をひたすら楽しむプロフイール撮影は良い均衡で成り立っていたのかもしれない。
次第にベリーダンスにもオリエンタルやフュージョン、トライバルなどいろんなスタイルがあり、遊牧民ロマの踊りや日本においては古代アメノウズメの踊り、ギリシャの女神の踊りなどさまざまな崇高で女性的な踊りと相まって独自のスタイルが確立されていることも知った。

Bellydancer YOSHIE

Bellydancer YOSHIE

今では、王道オリエンタルスタイルの魂を揺さぶる情熱的な魅力も十分にわかるが、当時クラブや野外パーティシーンと連動して、ひとつのムーブメントとしても盛り上がりの中にいたデバダシやアルカマラー二周辺は、非常に面白かった。

その後、カウンターカルチャーの一端を担っていたベリーダンスは、女を磨くエクササイズとして世に広く知られるようになり、ヨガと並んで健康増進につながる踊りとして定着している。

気づけば僕は、美女ダンサーと結婚し、一児をもうけて、今やっと写真集を出そうとしている。そういう意味では撮り続けた成果がやっと媒体と溶けあおうとしているみたいだ…。

ものずくれる人生①〜ベリーダンスを撮る人〜

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先日、ベリーダンスジャパンという雑誌で、ベリーダンサーを撮るカメラマンということで取材を受けた。
撮りはじめた経緯から撮るスタンスまでいろいろ聞かれたが、実際に使われたのは”ダンサーが良く撮られるために知るべきワンポイント!”的な感じのとってもわかりやすい内容。
僕はカメラマンというよりは、編集も原稿書きも企画出しも本の製作に関わる全般をやっているので、この雑誌がどういう体裁を求めているのか大体わかる。

実際、そんな体裁の本をいっぱいやってきたし、それが多くの人に受け入れやすかったりもする。
しかしながら、本というものづくりをやっていると、もっとその物事の本質というか、その中にある哲学や本音を引き出すような少し難解に感じても心に訴えかけるものをつくりたいと思うようになるものだ。

担当さんもその葛藤に苦しんでいるのがよくわかった。
実際、ちょっと玄人好みの企画を出してみると全然数字がとれず、上からきつーいダメ出しを食らって、やっぱりわかりやすいものに戻っていくという。
何年も企画を出しては、NGを出されるようなことを繰り返しているとそんな背景も容易にわかってくる。より本質的な部分や詳細なことっていうのは、こうしてブログや数千部の書籍の世界に反映されていけばいいのではないかと思う。

そんなわけで、今回ベリーダンサーを撮るカメラマンとしてインタビューされて、ふと「そういえばいつの間に自分はこういうことをしていたのだろう」と
思い返してみた。

気づいたら写真を撮り、物書きをし、本の企画出しをして編集製作をするような仕事をしている。生物学者か絵描きになりたいと思っていた十代の僕は、みずから描くことに挫折し、本づくりという舞台の中で表現することに活路を見いだした。

よく考えてみると結構おかしな道を歩んできたと思う。

そもそも僕がベリーダンスを見たのは、もう十年以上前、まだ本の仕事をはじめたばかりの頃だった。

 

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 大学では、アングラ劇団状況劇場の唐十朗や、やはりマニアックなロックバンド、ガセネタやタコで活躍した音楽評論家の大里俊晴に芸を学んだが、正直言って就職に役立つ勉強だったかはあやしいところだ。今いるような文化的な環境でしか働き先はなかったとも言える。
学生時代は、鬱屈した思春期の衝動を晴らすかのようにライブペイントやらバンド活動をしていた。そんな中で出会ったMが僕のその後の人生を変えたと言ってもいい。
医者の家系の次男で、エッジの効いた音楽と絵を描くことが好きなMとは何かと似たところがあり、十代後半からここ最近に至るまで文化の深みの中をMと歩いてきたような気もしている。
自分よりも遥かにマニアックで行動的なMにかなり多くの影響を受けた。
厚木の工芸大に通っていたMは、毎週のように車を持っている僕を誘っては古本屋と温泉、ラーメン巡りというお決まりのドライブをして怠惰に学生生活を共有していた。
ロックやフォーク、フリージャズ、演劇、クラブ遊びに至るまでよくよく遊びつくしたものだ。

511I8nmonML._AA300_ 僕よりも数年先輩だったMは、サブカル雑誌クイックジャパンの編集部に入社、怠慢な学生生活に浸り続ける僕より一足先に社会の荒波にもまれていた。
上司のきついお叱りを受けたり、取材アーチストにキレられて参っていると言いながらも自分が読んでいた雑誌の世界で世の中と戦っているMは楽しそうに見えた。
何かと自己アピールが大好きなMは、自分は社会に出てすでにこんなに世の中と戦っているんだぞと主張するかのように、僕に編集の手伝いをさせた。ボアダムズの山塚アイをはじめ、魅惑のアーチストの生の声の入ったテープ起こしをしたり、記事になるであろう人物の突撃取材を手伝うのは、報酬がなくとも十分に心ときめく体験だった。
まさか絵描きや音楽で食えるほどの技能も人気もなかった僕は、なんとなく本をつくる仕事をやりたいように思いはじめ、就職氷河期のはじめの頃で、未来に絶望していることをいいわけに、ろくな就職活動もせず、やはりM同様バンド活動で知り合った編集プロダクションの社長の元にころがりこんだ。
カメラを中心に編集もライティングもやる人だったので、僕もそれにならってすべてを勉強した。特に写真を撮ることは絵を描くこととは違うものの、表現意欲を満たすには十分なほどに魅惑の仕事だった。
Unknown 当時の社長Tは、Mに負けず劣らずの無頼漢の変人だった。「はみだし空手」で知られる大道塾という総合格闘技のチャンピオンであったが、チャンピオンになってムエタイの本場タイに乗り込んだはいいものの十代の少年に敗北。挫折してから何故か音楽活動にのめりこみ、みずからレーベルも主催するT社長。パンチドランカーとアル中、ヲタクが入り交じった相当無骨な人だったが、その容赦ない体育会系の指導がむしろ自分を鍛えてくれたように思う。

K1や極真などの格闘技の撮影やいわゆる取材ポートレート、物撮り、風俗、ルポルタージュ、グラビア、CDの販売までありとあらゆる媒体の仕事をしていたので、その詳細を書くだけでも長くなるが、それはここでは割愛させて頂く。特にグラビアの特写撮影は、かけだしの僕には憧れの仕事でいつか自分も表紙を撮れるようなカメラマンになることが当時の目標だったように思う。

なにしろペーペーだった僕は、やらせてもらえることすべてをがむしゃらにやった。ほとんど休みはなく、あまりの多忙さに彼女にもあきられて別れてしまったほどだ。しかし、それと引き換えに仕事の能力はあがっていき、版元の若手と組んで企画を出し、週刊誌数冊に連載を持つようになった。街に出て取材をするのが好きだったし、少しでも文化的な場所に身を置きたいと思い、怪しげな夜のクラブパーティの写真ルポをよくやっていた。
当時は”フェティッシュパーティ”も週刊誌も全盛で、毎週のようにボンテージ姿の女王様やラバースーツをみにまとった倒錯的な輩やど派手なゲイなどが集うパーティがあり、掲載する媒体もたくさんあった。
僕がはじめてベリーダンスを見たのは、実はこのフェティッシュパーティの取材の時である。
確か「サディスティックサーカス」というイベントだったように思う。
今もなお大人気のダンサーアキコさんをその時はじめて目にした。

暗闇の中で妖しく蠢きながらエキゾチックな音楽にあわせて蛇のように踊っている。中近東音楽特有の微分音の響きが平衡感覚をゆさぶり、幻想の世界へ誘う。長く鋭い剣を取り出し、絶妙なバランス感覚であたまや肩に乗せて舞うベリーダンサー。まさしく文章もこんな感じで紹介していたように思う。
そして同じイベントでマハさんとアルカマラーニの群舞も見た。中東のハーレムの世界を思わせる夢のような舞に酔いしれた記憶は未だに覚えている。当時アルカマラーニに所属していたミラちゃんもその時はじめて合い、随分な美人さんがこんなところにいるものだと思った覚えがある。

でも、本格的にダンサーを撮りはじめたのは、また別の時。僕が学生時代から5年間に渡って行っていた野外五感ゲージツ祭「ゆらぎ」の話しをしなければならないと思う。

次回へ続く。

 

プエルトリカンダンサーとスエイさん

Bellydancer Valerick molinary

Bellydancer Valerick molinary

 

 

奥さんとの共同レーベルナギプロジェクト主催によるプエルトリカンダンサーバレリックの来日公演が大盛況にて終了!

 

2度目の来日となるバレリック、実は僕たち夫婦とは何かと縁が深い。

1回目にプエルトリコで会った時は、まだ友人であった僕らの関係が、あの場所をきっかけに親密になり夫婦となった。

そして、ちょうど僕らが居た時にバレリックはプエルトリコからマイアミへと移住。家族や友人との別れの顛末の一部始終を共にした。

その後、1回目の来日公演の時には、ショーの前日に我が子の妊娠が判明。なにかっていうと人生の転機に居合わせることが多いのだ。

 

そのせいか、会うたびにディープな四方山話をする。そもそも彼女は、とても踊りや表現に対する哲学や芸術への感心が強く話しが面白い。同時にバカみたいに陽気でユーモラスなのが僕らのツボなのである。

 

レバノンとダブケなどの歴史と踊りの関わりの話しも面白かったが、なにより忘れがたいのは彼女がプエルトリコからマイアミへ移り住んでからの波瀾万丈の生き様だった。

彼女が宛てにしていた当時のボスは、相当なワンマンでちょっぴり成金趣向。しかし、親に捨てられ、十代でゲットーのような生活から渡米し、自分の力で財を築いたボスに彼女は一目置いていた。

しかし、そのあまりのワンマンぶりと成金趣向からか、さまざまなトラブルをおかし、今はスタジオも失ったという。バレリックもかな~りひどい仕打ちを受けて蹴り出された。

ラテン気質なカリビアンなら、ボスに恨みつらみをぶちまけ、二度と顔もみたくないとタンカをきってケンカ別れでもしたんじゃないかしらと思っていたが、驚いたのはバレリックの高倉健なみの男気?というか仁義の強さだ。

彼女は、スタジオを辞めたあとも「私にはボスに借りがあるから」と誰からも見放され、毎日神に祈っている元ボスを助け続けているという。

彼女はまだほんの27歳。この年齢にしてこの器のでかさに感服。ていうかめちゃくちゃアツい男…いや女だなと心が震えてしまった。

しかしこのボス、さんざん借金を抱えボロボロになっても高級車だけは大事に乗り続けているそうだ。話しの結末に彼女は「欲をかいて名誉ばっかり考えてるとろくなことないんだよ。大切なのは自分を理解してわかりあえる人と確実な関係を築くこと。だからハンタ、私を呼ぶ時に余計なお金も手間もかけなくていいからね」と男気(笑)たっぷりなまっすぐな目で言われた。

彼女が来日して一番感動してしまったのは、ショーの時でもワークショップの時でもなくこの時だった。

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この話しをしながら、僕は最近取材撮影で会ったスエイさんを思い出していた。スエイさんとは、「写真時代」や「ウィークエンドスーパー」など時代の象徴とも言うべき斬新な文化誌をつくるパイオニオの1人である末井昭氏。アラーキーや糸井重里、赤瀬川源平を世に輩出した第一人者だ。

最近、「自殺」というブログで連載していたエッセイを出版し、売上好調だという。スエイさんは、仕事柄さまざまな奇人変人と交流し、中には心を病んでいる人も多いという。なによりも自身の母を爆弾心中で亡くしているという強烈な人生をおくってきている。そういった自分を含めた心を病んでいる人々を赤裸裸に描き、自殺を考える人がむしろ「自分なんか全然平気」と思わせて自然に自殺を思いとどまらせることが本を出した理由なのだという。

そんなスエイさんが最近ハマっているのが「べてるの家」という精神疾患の人が、クスリを使わずに心を復元するための認知行動療法の施設だという。ここの方針が非常に面白い。自分にかかってしまった心の病気を「悪いもの」ではなく「ありがたいもの」と捉えるのだとか。病気は自分を悪くしたものではなく、自分に気づきを与えてくれたものなのだという。つまり、右肩上がりでものを考え、仕事や夢に邁進してきた人生を違う視点から見直させてくれるものであり、幸福は財を築くことではなく、別のところにあるのだと気づかせてくれるのだという。

それはまさしくの言うところのセロトニンの概念と共通するものがあり、やけに腑に落ちるものがあった。さらにそこでは、心を病んでいる時にあらわれる幻聴を「幻聴さん」と呼んで仲良くなるのだという。悪いものだと思っていた幻聴と仲良くなることで、次第に悪い幻聴が消え、「幻聴さん」は良いことを言うようになるのだとか。「幻覚妄想大会」なんていう開き直りにもほどがあるようなイベントもあるそうだ(笑)。

 

人間誰しも財があったほうがいいし、夢や栄誉を達成することはどんな人にも必要だ。しかし、それにとらわれすぎると大変な落とし穴が待っている。人生を楽しむことを忘れてしまうと、ついその穴に落ちやすくなる。

それは、病気だけではなく、家族や子どもも同じように気づかせてくれる。特に子どもの存在はそのことを強烈に思い知らせてくれる。

幸せ百倍、苦労も百倍。

子どもは可愛い。自分と妻の遺伝子の詰まった無垢な生き物は、それはそれは美しく、何よりも大切なものだ。一方で、夫婦においては以前のようにお互いに好きなだけ仕事して、適当な時に時間をあわせて遊ぶということはできなくなる。

殊にまだ保育園に行く前のこの時期は、お互いが仕事をしている時は子守りをしなければならない。どちらかがやりすぎればどちらかができなくなる。我が家はどちらも小規模な自営業なので、長く休みをとって子どもを見るというのは、経営を圧迫する。働かなければ飯も食えなければ子どもをいっぱしに学校に行かすこともできなくなってしまう。お互いのバランスを見極めなければ共だおれである。

そのために日々喧々諤々になることもしばしば。それでも、子どもは人生の本質的な幸せを気づかせ、何かを生み出し、情熱を維持するための源になっているというところに立ち戻る。

病気でも伴侶でも子どもでも同じだが、それに気づけると、人生はどんなにキツくとも幸せなものになるものだ。

 

リア充や非リア充などという言葉があるが、ネット上で描かれたポジティブな個性を見て、心を病んでしまう人が今は多いのだという。Facebookなどの個人が特定できるSNSでは何かと前向きな記事が多く、非リア充な人からすると辛くて余計に落ち込み、「俺なんか全然ダメだ」とイヤになるのだとか。しかし、そこに描かれた個性がその人のすべてではない。リア充に見えても誰しもその背景にはとてつもない非リア充が詰まっている。人の所作にとらわれて、自分の幸せを失うことが最大の不幸ではないだろうか。

 

それにしても、うちの子は本当に誰よりもきゃわいい。と毎日本気で思っている半端ない親バカです。

なにより、子どものくしゃくしゃの笑顔を思い出すだけで、あっという間に幸せな単純男です。