ものずくれる人生①〜ベリーダンスを撮る人〜

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先日、ベリーダンスジャパンという雑誌で、ベリーダンサーを撮るカメラマンということで取材を受けた。
撮りはじめた経緯から撮るスタンスまでいろいろ聞かれたが、実際に使われたのは”ダンサーが良く撮られるために知るべきワンポイント!”的な感じのとってもわかりやすい内容。
僕はカメラマンというよりは、編集も原稿書きも企画出しも本の製作に関わる全般をやっているので、この雑誌がどういう体裁を求めているのか大体わかる。

実際、そんな体裁の本をいっぱいやってきたし、それが多くの人に受け入れやすかったりもする。
しかしながら、本というものづくりをやっていると、もっとその物事の本質というか、その中にある哲学や本音を引き出すような少し難解に感じても心に訴えかけるものをつくりたいと思うようになるものだ。

担当さんもその葛藤に苦しんでいるのがよくわかった。
実際、ちょっと玄人好みの企画を出してみると全然数字がとれず、上からきつーいダメ出しを食らって、やっぱりわかりやすいものに戻っていくという。
何年も企画を出しては、NGを出されるようなことを繰り返しているとそんな背景も容易にわかってくる。より本質的な部分や詳細なことっていうのは、こうしてブログや数千部の書籍の世界に反映されていけばいいのではないかと思う。

そんなわけで、今回ベリーダンサーを撮るカメラマンとしてインタビューされて、ふと「そういえばいつの間に自分はこういうことをしていたのだろう」と
思い返してみた。

気づいたら写真を撮り、物書きをし、本の企画出しをして編集製作をするような仕事をしている。生物学者か絵描きになりたいと思っていた十代の僕は、みずから描くことに挫折し、本づくりという舞台の中で表現することに活路を見いだした。

よく考えてみると結構おかしな道を歩んできたと思う。

そもそも僕がベリーダンスを見たのは、もう十年以上前、まだ本の仕事をはじめたばかりの頃だった。

 

kara


 大学では、アングラ劇団状況劇場の唐十朗や、やはりマニアックなロックバンド、ガセネタやタコで活躍した音楽評論家の大里俊晴に芸を学んだが、正直言って就職に役立つ勉強だったかはあやしいところだ。今いるような文化的な環境でしか働き先はなかったとも言える。
学生時代は、鬱屈した思春期の衝動を晴らすかのようにライブペイントやらバンド活動をしていた。そんな中で出会ったMが僕のその後の人生を変えたと言ってもいい。
医者の家系の次男で、エッジの効いた音楽と絵を描くことが好きなMとは何かと似たところがあり、十代後半からここ最近に至るまで文化の深みの中をMと歩いてきたような気もしている。
自分よりも遥かにマニアックで行動的なMにかなり多くの影響を受けた。
厚木の工芸大に通っていたMは、毎週のように車を持っている僕を誘っては古本屋と温泉、ラーメン巡りというお決まりのドライブをして怠惰に学生生活を共有していた。
ロックやフォーク、フリージャズ、演劇、クラブ遊びに至るまでよくよく遊びつくしたものだ。

511I8nmonML._AA300_ 僕よりも数年先輩だったMは、サブカル雑誌クイックジャパンの編集部に入社、怠慢な学生生活に浸り続ける僕より一足先に社会の荒波にもまれていた。
上司のきついお叱りを受けたり、取材アーチストにキレられて参っていると言いながらも自分が読んでいた雑誌の世界で世の中と戦っているMは楽しそうに見えた。
何かと自己アピールが大好きなMは、自分は社会に出てすでにこんなに世の中と戦っているんだぞと主張するかのように、僕に編集の手伝いをさせた。ボアダムズの山塚アイをはじめ、魅惑のアーチストの生の声の入ったテープ起こしをしたり、記事になるであろう人物の突撃取材を手伝うのは、報酬がなくとも十分に心ときめく体験だった。
まさか絵描きや音楽で食えるほどの技能も人気もなかった僕は、なんとなく本をつくる仕事をやりたいように思いはじめ、就職氷河期のはじめの頃で、未来に絶望していることをいいわけに、ろくな就職活動もせず、やはりM同様バンド活動で知り合った編集プロダクションの社長の元にころがりこんだ。
カメラを中心に編集もライティングもやる人だったので、僕もそれにならってすべてを勉強した。特に写真を撮ることは絵を描くこととは違うものの、表現意欲を満たすには十分なほどに魅惑の仕事だった。
Unknown 当時の社長Tは、Mに負けず劣らずの無頼漢の変人だった。「はみだし空手」で知られる大道塾という総合格闘技のチャンピオンであったが、チャンピオンになってムエタイの本場タイに乗り込んだはいいものの十代の少年に敗北。挫折してから何故か音楽活動にのめりこみ、みずからレーベルも主催するT社長。パンチドランカーとアル中、ヲタクが入り交じった相当無骨な人だったが、その容赦ない体育会系の指導がむしろ自分を鍛えてくれたように思う。

K1や極真などの格闘技の撮影やいわゆる取材ポートレート、物撮り、風俗、ルポルタージュ、グラビア、CDの販売までありとあらゆる媒体の仕事をしていたので、その詳細を書くだけでも長くなるが、それはここでは割愛させて頂く。特にグラビアの特写撮影は、かけだしの僕には憧れの仕事でいつか自分も表紙を撮れるようなカメラマンになることが当時の目標だったように思う。

なにしろペーペーだった僕は、やらせてもらえることすべてをがむしゃらにやった。ほとんど休みはなく、あまりの多忙さに彼女にもあきられて別れてしまったほどだ。しかし、それと引き換えに仕事の能力はあがっていき、版元の若手と組んで企画を出し、週刊誌数冊に連載を持つようになった。街に出て取材をするのが好きだったし、少しでも文化的な場所に身を置きたいと思い、怪しげな夜のクラブパーティの写真ルポをよくやっていた。
当時は”フェティッシュパーティ”も週刊誌も全盛で、毎週のようにボンテージ姿の女王様やラバースーツをみにまとった倒錯的な輩やど派手なゲイなどが集うパーティがあり、掲載する媒体もたくさんあった。
僕がはじめてベリーダンスを見たのは、実はこのフェティッシュパーティの取材の時である。
確か「サディスティックサーカス」というイベントだったように思う。
今もなお大人気のダンサーアキコさんをその時はじめて目にした。

暗闇の中で妖しく蠢きながらエキゾチックな音楽にあわせて蛇のように踊っている。中近東音楽特有の微分音の響きが平衡感覚をゆさぶり、幻想の世界へ誘う。長く鋭い剣を取り出し、絶妙なバランス感覚であたまや肩に乗せて舞うベリーダンサー。まさしく文章もこんな感じで紹介していたように思う。
そして同じイベントでマハさんとアルカマラーニの群舞も見た。中東のハーレムの世界を思わせる夢のような舞に酔いしれた記憶は未だに覚えている。当時アルカマラーニに所属していたミラちゃんもその時はじめて合い、随分な美人さんがこんなところにいるものだと思った覚えがある。

でも、本格的にダンサーを撮りはじめたのは、また別の時。僕が学生時代から5年間に渡って行っていた野外五感ゲージツ祭「ゆらぎ」の話しをしなければならないと思う。

次回へ続く。

 

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