僕が学生時代を謳歌した90年代は、ちょうどバブルが崩壊し、日本の経済が下り坂になろうという時 。世の中は何か世紀末的様相だった。 文化における大きなムーブメントは終わり、細分化されて小さなコミュニティになっていくと、当時いろんな場面で言われていた。その分岐点にあったのが90年代だったように思う。
音楽シーンで言えば、80年代パンクやニューウェーブの流れが終わり、オルタナティブロックやテクノがひとつの流れをつくろうと言う時。どことなく1ジャンルにおける本流は終わり、すべてがカットアップされていく時代にも思えた。実際2010年代の今、それが現実のものとなっている。
大きな流れは音楽というジャンルの中にはなく、「フェス」とか「秋葉系」という文化と一体となった中に存在しているようだ。 そんなロックの新しい潮流が見えない当時、「テクノ」という言葉だけは新鮮で、ロックが持っていた大きな意思はすべてテクノと融合していったような気がする。 そして”レイヴ”というものが最大のカウンターカルチャーとしてそこに産まれた。2000年以降、それは急激に素行の悪いガングロ 兄さん姉さんたちの下世話な遊び場になってしまったが、僕が遊んでいた頃はニューエイジ的流れを組みつつも、ロックのアナーキズムを携えたフリーキーな空間に思えた。
「セカンドサマーオブラブ」以降の日本におけるレイヴムーブメントは、リアルタイムに体感した90年代の時代そのものにも思える。70年代に夢見た理想郷、80年代は夢破れてリアリティを爆走、90年代は爆走しながら夢見るように今を生きる。原始共産主義という極端な理想を掲げるのではなく、より現実的に自然と共生する社会のあり方を問いはじめた時、だったような気がする。
そういった思想的なものが「まつり」の背景にあり、ただただ無為に遊ぶというよりは、多くの人が自己研鑽してあたまの体操を限界ギリギリまで楽しみ”彼方”はどこにあるのか見つける空間。気づけば集合無意識が、音塊に乗って「つながった世界」を創りだしている。泥だらけになって、どれだけ無茶苦茶になっても許されるような「解放区」がそこにはあった。とにかくどうかしちゃってる人がいっぱいいた良い時代だった。
Rainbow2000を筆頭にequinox、vitaminQ、solstice、いのちの祭りなど名前をあげるだけでこめかみのあたりが熱くなるような面白いパーティが毎週にように繰り広げられていた。 ベリーダンサーで言えば、トライバルサーカスでMIHOさんが踊っていたし、GOROさんがミシャールと出演しているようなこともあった気がする。でも、毎度激しく酩酊し、上も下もわからないような時に見たそのシーンは極彩色に歪んで、森や太陽の光、星のまばたきと轟音のアナログシンセサイザーのうねりと溶け合って定かでない。 実はそこで起きていたいろんなことについて書きかけの本があって、それをやっとかけそうな時が来ていることもこのブログを書いている理由のひとつ。あまりにいろんな人を待たせ過ぎて、あたまが上がらないので詳細は割愛したい。
そんな虹色のパーティシーンを体感しながら、唐十郎の「タイガーの眼」の講義を聞き、大里俊晴に「阿部薫を題材にレポート書いてきたら単位やる」なんていう課題を与えられ、論文ではジョルジュバタイユを執筆していたものだから、今思えば当時あたまの中はいつでもぐにゃりと曲がって、虚実混交してわからないという状態だったような気がする。
耳的にもテクノやトランスを聞きながら、アシッドフォークやフリージャズ、パンクロックも聞いてしまうようだったので、野外パーティに行った翌週に渋谷のアピアで友川かずきを見にいくといったような共有してくれる人が圧倒的に少ないんじゃないかと思われるような生活をしていた。 Rainbow2000にもその後働くことになるT社長と、とってもディープなアシッドフォークを奏でる井内賢吾さんと行ったような覚えがある。T社長はイスラエル人の戯れるスピーカーの前で白目を向いて痙攣し、井内さんは気づくと水たまりにダイブして叫んでいた。 そんな遊び方が「パーティ」だと思っていたものだから、いろ〜んな意味でこじらせちゃってたなぁ、妙な哲学にはまっていろんな人に迷惑かけたかもなぁ、とか今になって思うことが多々ある。
でも、僕の中では自然の中で心を爆発させて解放させることと、ライブハウスで内向的に爆発すること、果てはフェティッシュパーティで極限のパーフォーマンスを見せること、知的障害の人たちの本能の表現は、全部同じことなんじゃないかと勝手に思っていた。人間突き詰めると、行き着く慈愛のような恍惚の感覚はすべての表現にあるように思うところがあった。
それを体現しようと思ったのが野外五感ゲージツ祭「ゆらぎ」である。当時はまだ「フェス」なんていうものはなく、DJとロックやジャズのバンドが同じステージでパフォーマンスするということはあまりなかった。時に野外パーティのエコロジーな場でそういった過激でアバンギャルドな要素を嫌うような人もおり、どう考えてもおかしな常識観念に埋没していた僕は、反骨精神を無為にこじらせていた。
フランス文学を読み過ぎていたせいもあったのか「むしろそんな場こそが本当に自由な解放区だ!」と若気が至りまくって思い立ち、DJとフリージャズバンドとジャムバンド、パンクバンド、フェティッシュパフォーマー、暗黒舞踏、市民劇団、障害者の民族バンド、ライブペイント、オイルライティング、子どものためのアートワークショップ、ありとあらゆる自由な表現が共存するおかしなイベントをはじめてしまった。
この時にお世話になった渋さ知らズの舞台監督にして画家の安部田さんや、DJであり、さまざまな伝説のバンドのメンバーとして活躍したヒゴさんは、僕の恩師であり、どんな師匠よりも文化の尊さを教えてくれた2人だと思っている。もちろん当時の僕の稚拙なイベント仕切りとわけのわからない方法論につきあってくれたスタッフのすべてにも感謝している。これまた書き出すときりがないくらいいろんな話しがあるが、それもまた今度にしよう。
このゆらぎは学生時代から毎年秋頃に開催し、自分を含めスタッフも皆仕事で多忙になってできなくなってしまった2005年か2006年くらいまで5回に渡って開催。 毎年新鮮なパフォーマンスを魅せるためにいつもいろんな場所に顔を出していたし、いろんなアーチストを探していた。 そんな時に当時の僕のバンドメンバーが連れてきたのが、当時ミシャールの元でサマンヨルとして活動していたベリーダンサーサリちゃんである。まだ筑波大学の学生だったサリちゃんを筑波山のイベントに呼ぶのは、むしろ当然の流れであったし、ベリーダンスというエキゾチックで妖艶な踊りの魅力にもとり憑かれてしてまっていた。(先日、そんな学生だったサリちゃんがめでたく結婚! 彼女の紆余曲折をそれなりに見てきただけに感慨深いものがありました!)
そして、サリちゃんを通してはじめてミシャールの存在を知ることになる。当時はむしろ旦那さんであるGOROさんの方が僕はよく知っており、渋谷のストリートでディジュリドゥと太鼓のパフォーマンスをするカリスマ的存在だった。
ミシャールを見た時もまた大きな衝撃だった。確かGIOが主催するダキニナイトに行った時のこと。青山CAYの地下、薄明かりに照らされてまるでインドの女神のような黒髪のエキゾチックな出で立ちのダンサーがゆらゆらとステージの中央に現れ、女神のように座した。よく見るとお腹は大きく膨らみ、まさしく母なる女神そのものにさえ見えた。ふっと、手元から火を魔術師のように取り出し、手首腰くびれを蛇のように揺らして摩訶不思議。妖艶なエネルギーが会場全体を包み込んでいるように見えた。
その衝撃は、雑誌クイックジャパンに記事として紹介した。そのことをきっかけにデバダシスタジオと親交を深めるようになり、その後某誌の結婚特集では、インタビューも行ってミシャールとGOROさんの2人とより深く関わるようになっていく。
その当時、写真撮影の経験も重ねたいと思っていた僕は、イベントに呼んでもらう度にちょっとずつ写真も撮るようになった。格闘技とポートレートの撮影、グラビア撮影アシスタントをやっていたので、動くダンサーを撮ることは格闘技のパンチのインパクトの瞬間を撮ることと、女性のボディラインの美しさを切り撮るモデル撮影をあわせたような要素があって、僕のやっている仕事を集約するような面白さがあった。また、求められる写真を撮る雑誌の仕事以上に、自分の表現欲求を満たしてくれるところもあった。
当時まだベリーダンスの写真をプロで撮る人自体それほどおらず、プリントした写真を持って行くとみな喜んで感動してくれた。実は当時舞踏の撮影も好きで時折行っていたのだが、舞踏を撮る人というのはかなり多いせいなのか「撮るならいくらなのか?」と請求されることもあり、住み込みの安月給だった僕にはちと敷居が高かったのもある。 それから長くベリーダンスを撮ることになった。
住み込みのペーペー時代から独立し、ストロボを使った特写も覚え、いつしか雑誌のグラビアや表紙撮影もするようになると、プロフィール写真なども頼まれるようになった。いくつかの製作会社やカメラアシスタントを転々とし、さまざまな技術を体得しては、ダンサーの撮影の際に転嫁させたり、逆にダンサーの撮影の際にいくつかの実験をして、グラビアに活用することもあった。
そういう意味では、求められる体裁に確実に応えなければいけない雑誌の撮影と、ダンサーと起きる化学反応をひたすら楽しむプロフイール撮影は良い均衡で成り立っていたのかもしれない。
次第にベリーダンスにもオリエンタルやフュージョン、トライバルなどいろんなスタイルがあり、遊牧民ロマの踊りや日本においては古代アメノウズメの踊り、ギリシャの女神の踊りなどさまざまな崇高で女性的な踊りと相まって独自のスタイルが確立されていることも知った。
今では、王道オリエンタルスタイルの魂を揺さぶる情熱的な魅力も十分にわかるが、当時クラブや野外パーティシーンと連動して、ひとつのムーブメントとしても盛り上がりの中にいたデバダシやアルカマラー二周辺は、非常に面白かった。
その後、カウンターカルチャーの一端を担っていたベリーダンスは、女を磨くエクササイズとして世に広く知られるようになり、ヨガと並んで健康増進につながる踊りとして定着している。
気づけば僕は、美女ダンサーと結婚し、一児をもうけて、今やっと写真集を出そうとしている。そういう意味では撮り続けた成果がやっと媒体と溶けあおうとしているみたいだ…。